あれから2週間

あの時、私は、自宅事務所に居て、M邸のフローリングの発注を携帯メールで行なったその直後だった。
デスクの目の前がふ〜らふ〜らと動き始め、最初は自分がめまいでくら〜としたのかと思った。それからだ。
妙に長い横揺れが始まった。

ガツン!と言うたて揺れが無いので、驚いたり慌てたり、という感じでは無かったが、今まで感じたことの無い揺れが気持ち悪く、妻の居る居間の方に駆け込みテレビを点けた。
それから見たものは日本の現実とは思えない東北地方の地震によるひどい津波の被害だった。
今までは予報より現実の方が軽いことがほとんどの為、自然災害に関し、甘く見ていた自分の観念を全く変えることになった。
それは100年に一度の地震どころか1000年に一度の地震という。
平時が続く日常では「100年に一度」と言われても、ピンと来ない自分がいた。
住宅の耐震性をその強度に応じ等級で判断する際にも「数百年に一度来るような地震に対し倒壊しない・・・」のように例えて表現したりするが、その数百年に一度でさえ、人はその一度が自分の身に降りかかるかどうか?深刻に考えただろうか?
どちらかというと、人は頭でわかってはいても自分には降りかかるまい、と楽観的に思い込む癖があるという。
それから考えれば「1000年に一度」と言うのは「ほとんど起きないと同じ」と考えてしまいがちだが・・・・、

逆に1000年に一度は起きるのだ。

そのタイミングに自分が生きていることもあるのだ。

今回の魔物は言うまでも無く津波だ。
津波があれほどの脅威だということをいったいどれだけの人が知っていただろう。
今まで海外で起きた津波の被害に対し、頭ではニュース等を通じ理解していても、自分の心はいかに「対岸の火事」だったかということを気づかされた。
友人とも話したが、今まで地震があって気象庁から「津波予想○○cm」と言われても、海岸に○○cmの波が押し寄せる場面を頭に浮かべ、で、いったいどれだけの影響があるの?と正直全く気にもしなかった。

今回はそのレベルをはるかに超えた。2倍とか3倍どころではない。
新聞に拠れば襲来した津波の高さは9メートル強に達し、リアス式海岸で増幅された地域では17.6メートルに達したところもあるそうだ。(3/29朝日新聞)
自然は人が思うようなスケールではコントロール出来ないのだろう。
原子力発電所の放射能の件もそうだが、計測地により単位がひとつ変るような増え方をする。
人はそれに慣れてないから、そもそも感覚が分らない。
放射能は自然とは言いがたいが、でも自然はずっとこの位のスケールで変動してきたのだろう。
その中で人はすごく微妙なバランスの中で(自然が平和な顔をしている挟間に居させてもらう様に)暮らして来たのではないかと思ってしまう。

話が大きくなってしまうが、
地球が太陽系の中でも、太陽との距離など様々な奇跡的なバランスの中で水や生命を携えることが出来、美しい天体となったこと自体が自然の気まぐれ・たまたまそうなっただけの偶然かもしれないと思ってしまう。
本当はとても微妙な均衡のうちに成り立っているこの地球、そして私たちの生活なのかも知れない。
それは、原子力発電事故でも感じるように、危険と背中合わせの文明社会を差すのかも知れない。
あまりに平和が当たり前の生活に慣れていた私達に今回は、その背中合わせにあるのに閉じ込めて見ないようにしていた代償を見せつけられることになった。

でもそれが現実だ。もう「ALL電化」という言葉だけでわかったような気にはなってはいけない。便利で快適な生活を得るために私たちが何を犠牲にしているか?
どんな危険を受け入れる「覚悟」をしてその「気持ち良さ」を得ているのか?

今回の震災でもう一度、そのことを踏まえた上で生活とそれを支えるものの意味を考え直す時が来たのではないか。
私達が作り出す「家」や「暮らし」はそのことと直結する。
震災で被害にあった東北の方は本当に気の毒で、少しでも多くの方が生きて、元の生活に早く戻ってもらいたい。
でも、遠くにいる私達は直接的な支援はすぐに出来ない。今回の震災から得ることを別の形で教訓や意味に変えて、自分たちの仕事や今後の価値観を変えていく力にしたい。
それも、私たちのできることだと思う。


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